掛川茶の歴史

茶の飲用の歴史

静岡県掛川(かけがわ)市は、日本列島のほぼ中央に位置しています。

掛川市の位置

その歴史の古さを物語るものとして掛川市内には694の遺跡が確認されており、静岡県内で一番遺跡の多い市と云われています。天竜川・富士川に挟まれた自然豊かなこの地では、昔から農業が活発に行われていたようで、弥生時代の水田跡が原野谷川・逆川などの川沿い・谷沿いの地に多く見つかっています。

茶の飲用に関しても古くから記録が残っており、『言継郷記』の1557年の記録からも、大納言山科吉継が道中の掛川で茶を飲んでいたことを伺うことができます。

1557年の「言継郷記」に掛川茶の記載がある。

大納言山科吉継の旅日記のなかの記録弘治3年(1557)
3月の条、掛川の天然寺へ宿す。
三日「自住持茶子草餅被出之、今井入道為使自城草餅一盆茶 一やきん等之賜」
六日「自城朝夕日々被送之・・・・・・ 餅にて茶有之・・・・・・ 」
七日「寺僧意文茶 一やきん 送之」
九日「掛川より過一里、はら川又過一里袋井又過二里見付之衙・・・・・・ 
    自より駿州今日迄三日来之間十疋つゝ茶之代申付遣之・・・・・・ 」

言継郷記

茶の栽培の歴史

掛川では、茶の栽培も古くから行われていました。「小笠郡茶業史」によると、郡北部の和田岡村吉岡と高田の須久茂田原では1570年に茶園が開かれていたといいます。

※この当時掛川は城下町で、東海道五十三次の要所、日坂宿・掛川宿の二宿がありました。東の大井川、西の天竜川に挟まれた掛川の地にそびえる掛川城は、戦国時代の末期に山内一豊が城主として名を成した出世城として知られています。

さらに時代は下り、江戸時代に入ると茶の生産も本格化しました。天明年間(1781~1789年)の風土記書上帳には次のように記されており、すでに掛川の一カ年の産出額は約1000貫(3.75トン)上っていたことがわかります。

一、茶、儀右者下茶出来仕候得共右茶壱ケ直段六拾四文ヨリ七拾・八拾位ニ仕候、壱本直段今一分二朱位仕他所ニ売払申金高壹ケ年ニ凡村中ニテ御合給様ノ分共金弐拾四両程天明四年(1784)甲辰正月

小笠郡茶業史

茶の生産の拡大

明治時代に入ると、職を失った武士が広大な牧の原台地を開拓し大茶園を開き、茶の生産量も一段と増えていきました。そして、掛川のお茶は繊維と並ぶ日本の主要輸出品として、アメリカなど海外へ大量に輸出されるまでになったのです(もちろん、私共も当時から今日に至るまで茶の輸出を手がけてまいりました)。

それから約150年近くを経た今日でも、日本のお茶生産の50%近くを作っている静岡県において、その生産量の約10%を掛川市が担っています。もちろん、ただ生産量が多いだけではありません。栽培・製茶技術の革新も続いています。皆様ご存じ、今では日本中に広まっている「深蒸し」も、ここ掛川で生まれた製法です

急須で入れた掛川深蒸し茶

いわば掛川は名実共に日本一のお茶どころ。ここ掛川から、宝和園はお茶文化を発信してまいります。

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。